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「怒り」は価値観への脅威から生まれるもの

こんにちは、ありぃです。

今回は「怒り」にテーマを絞って書いていきます。

これは以前、私がアサーションの講習会を受講し、印象に残ったことを基に書いていきます。

アサーションとは、「自分も相手も大切にする自己表現」*1のことです。

詳しく説明は省きますが、自分の意思を伝えながら、相手も尊重するコミュニケーションスキルです。

参考:

アサーションの意味とは コミュニケーションスキル Weblio辞書

この考え方の中で、「怒り」は大切なものとして扱われています。

他者と接する中で、切り離すことはできない感情だと考えられているからです。

苛立ちや不快感も「怒り」の一部です。

なので、自分の感情を知るには、自分がどのような時に「怒り」を覚えるかを知ることが大切だと思い、この記事を書きました。

そのことについて、詳しく説明していきます。

そもそも「怒り」とは?

怒り(いかり、: anger)とは、人間の原初的な感情のひとつで、様々な要因・理由で起きるもの。例えば目的を達成できない時、身体を傷つけられた時、侮辱された時などに起きるものである1)憤り(いきどおり)とも言う。用言動詞的な表現としては「を立てる」「立腹」「カッとなる」「に来る」とも。 

怒り – Wikipedia

広辞苑では「おこること。腹立ち。立腹。」としか書いていなかったので、より分かりやすいものを持ってきました。

不快を感じた時や、精神的・身体的に苦痛を感じた時に生まれる感情です。

どちらかというと、ネガティブな印象しかありませんし、「怒る」ことはしてはいけない、と言われることも多いです。

身体的には痛みや疲労など、想像することは簡単だと思います。

しかしなぜ、精神的な不快感や苦痛を感じるのか、ちゃんと考えたことはありますか?

「怒り」は価値観への脅威から生まれる

人は誰しも、生まれた時から今に至るまで、様々な経験を記憶して、自分の中の価値観を育てています。

価値観は、自分の中の常識を作るものでもあります。

常識は、全てが他の人と共通、という訳ではありません。

例えば、日本では麺類をすするのは普通で常識の範囲内ですが、海外ではそうではないですよね?

この場合は違う文化圏で起こっていますが、この違いが、同じ文化の中でも起きていると思ってください。

同じ文化で育ってきたからこそ、理解できない行動がもっと許せなくなるのです。

理解できないものが自分の前に現れた時、それは「脅威」になります。

その「脅威」に対する感情として「怒り」が生まれるのです。

「怒り」が起こす看護師業界の闇

「普通、あんなことやらないよね」

「こっちの言ってることが響かないし、あの子常識ないよね」

看護師の現場でもよく聞く会話ではないでしょうか?

そうやって、苛立ちながら後輩にきつく当たる先輩看護師。

その普通とか常識とかって、誰が決めてるんでしょうか?

後輩に対してきつく当たる看護師ほど、この言葉を使います。

「安全のために必要だから、言ってあげてる」

本当にそうでしょうか?

それはただ、自分の常識や価値観にそわないから、きつい言葉として攻撃しているのではないでしょうか?

安全を考えるなら、きつい言葉ではなくても良いはずです。

委縮させてしまえば、相手は自己防衛で殻にこもるのは当たり前です。

「響かない」という状況を自分たちで作り出しているのではないでしょうか?

「きつい言葉じゃないと伝わらない」

本当に?

自分の価値観や常識で測れないものが怖くて、無意識にその不快感を攻撃的な言動で返し、相手を威圧しているかもしれません。

そして、威圧されたことによって、相手が防衛のために出した反応を反抗と捉えて、さらに叩きのめしてませんか?

さらに言えば、自分が言ったことで相手が黙った時、

「やっと黙った!」

と思ったことはありませんか?

「何も言わずに言うことを聞けばいい」

とも。

それは、「怒り」をぶつけることに快感を覚えているのかもしれません。

「怒り」は連鎖する

こうして「怒り」をぶつけられた後輩たちはどうなるのか。

結果はたいがい、「怒り」をぶつける人になります。

周りにもたくさんいましたが、実際私がそうでした。

私も先輩たちにコテンパンに言われ、「今までのプライドは全部無くさないと意味がない」と人生否定をされてきました。

こんな先輩にはならない、と心に決めていましたが、気づけばきつい口調で後輩を叱っている自分がいました。

とても怖くなった。

自分も、あの怖い先輩たちと同じになっていくんじゃないかと思うと恐怖でした。

実際、看護師業界では人間関係が問題になっているかと思います。

それは「安全のため」という、誰も何も言えない理由を盾に、こうして自分の「怒り」を周りにばらまく人がいるからです。

そして、それを受けた人は逃れられない環境の中、一種洗脳のようにそれが正しいことだと思ってしまう。

私が以前いた病棟では、年にひとりはストレス障害で辞めていくようなところでしたが、怖い先輩たちがいなくなった今も、新人がストレス障害で病棟を去ったと聞きました。

でも、病棟内にいる人はそれがおかしいことだとは思いません。

ただ、

「その子たちが弱かったから」

「仕事が遅くて、なにもできなかったから」

と理由をつけていました。

私は辞めて外に出て思いますが、そうは思わない。

「怒り」の放出が、連鎖している結果なのだと思います。

「怒り」は理解できる

私はアサーションの講習会でこの「怒り」が価値観の相違から生まれることを知ってから、自分がイラっとした時や、カッとした時にはなぜそう思うのか、考えてみるようにしました。

必要な時は、声に出して、ノートに書いて、言語化しました。

そうすれば自分の思考がまとまるからです。

そして、自分にはどういう価値観があって、こういう人とは相容れないだろう、ということがわかりました。

だから、まずは近づかない(笑)

もし近づいてしまったとしても、可能であればフェードアウトするか、適度な距離を保つことにしました。

一つ注意が必要なのは、言語化する時、特に声に出す時に愚痴にならない方がよい、ということです。

愚痴って、言ってる時はすっきりしたような気がしますが、結局何時間かけて話しても全然何も変わってないんですよね。

ただ、特定の物事や人物に対して、共通のネガティブな認識をしている、ということがわかるだけです。

それって、建設的ではないですよね。

愚痴を言うなら、その状況を打開するにはどうしたらいいのかを考えることも大切だと思います。

「どうしようもない!」

「私たちにできることはたかが知れてる!」

というのであれば、愚痴の時間は最小限にした方がいい。

それよりもむしろ、その状況でどう毎日を充実させていくか、職場環境を良くしていくかを考えた方がいいのではないでしょうか。

おわりに

私も病棟勤務していた時は、自分の価値観にがんじがらめにされていました。

「これは守らないと」

「安全のために」

そんな風に日々を過ごしていました。

守らなければいけないものも多かったけれど、気にしなくていいことも多かった。

本当に日々疲れました。

「怒り」についても、少しは理解して、知ろうと努力したものの連鎖についてまで考えることはできませんでした。

その環境が当たり前だと思っていたし、厳しく言うことも相手のために必要なことだと考えていたからです。

病院を辞めて、一般の社会を知って初めて、それがおかしなことだったと気づきました。

この記事は、自分への戒めでもあります。

言いたいことは、言えばいい。

でも、それを攻撃的に発すれば、他人にとっては脅威になってしまう。

お互いが、相手の意見をしっかり聞くことができるような、そんな環境を作るのは自分自身だということ。

相手が攻撃してくる時にはなにを脅威に感じているのかを知ることが大切だと、心に留めていきたいと思います。

そして、この「怒り」を知ることは、自分の心がどういう状況にあるのかを測ることもできるし、心の整理にも大切役割をしてくれるからです。

 

*1:出典:「アサーション入門」平木典子著